「堪忍文」この言葉は初めて聞きました。

秀吉の「三木攻め」の後、(どんな経緯かは定かではないのですが)
蜂須賀まさかずに使え、
二代目までは「堪忍文」によれば200石頂いていたとか。

この「堪忍文」どうやら「生活手当てを与えます」みたいな書状のようです。

この手当てを頂いていたときは、役職に付かず、手当を頂いていたようです。

お話によると、
「赤松家から招かれた客分扱いだったとか、他に理由があってそうなったのかわからない」
とのことです。

三代目からはきちんと役に付き、600石頂いていたようです。

「ます田、森、小南」と、三奉行がいたようで、
どうやら、今で言う「裁判所」のような役割だったとか。

「鉄砲組頭」という文字も見受けられたようで、これからだんだんと解って来るかと、、。

「興味深い事がありまして、、」
とお話してくれたのは
「加藤清正の助成に、朝鮮に出兵しているようなんです」と。

なにせまだ研究を進めているというよりは、
スタートの準備が整ったというくらいの段階。

時間はかかるかと思いますが、また少しずつ紹介していきたいと思います。

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