新聞記事
26日付けの産経新聞に載っていた記事です。

「祓い」の信仰儀式が遊戯化

今日一般化している三段、五段の雛飾りの庶民社会への普及は、明治以降のことであった。
起源を求めれば、それは古い。

室町期に公家の社会で 男雛と女雛の対形式が整えられた、と伝わる。
そして、江戸時代になると、武家社会でその発達をみた。

三都(江戸、大阪、京都)では仮設の人形市も立った、
と、当時の代表的な風俗事典である『守貞漫稿』に記されているので、
江戸後期には、町人社会でもその流行をみた、としてよい。

しかし、それは、あくまでも都市における上流社会への普及であったのだ。

農村漁村では、「雛流し」(流し雛)が古い習俗であった。
紙を切り抜いた人形(ひとがた)で体を撫でて穢れを移し、
その人形を川や海に流す。
各地の神社で夏越しの祓いとか年越しの大祓いが定例化しており、同様の作法を用いる。

弥生の節句のそれは、『巳の日の祓い』といった。

鳥取県や和歌山県に残る桟俵に乗せた紙折雛を川に流すのは、それが遊戯化したものである。

信仰は、時代とともに遊戯化もする。

「女子の節句」と呼ぶのも、雛飾りの普及にあわせてのことであった。

そもそも節句は、中国から伝来の『節季祓い』であり
季節の変わり目を無事に乗り越える為の行事であった。
それが、日本の農山漁村では、 雛流しになり、
都市では 雛飾りになった、と考えればよろしいのだ。

行事が遊戯化するとそこに俗説が生じることにもなる。

たとえば、「女子の祭りだから甘い白酒・・・云々」
まさか、女子を酒飲みに育てよう、というわけではあるまい。

『祓い』に本義があるかぎり、参加を女子にかぎったわけではない。

もとは、家族皆が「桃酒」を飲んでいた。

貝原益軒の『日本歳時記』にも、
「三日桃花を取て酒にひたし、これを飲めば病を除き、顔色をうるほすとなん」
とある。

ちなみに、白酒は、江戸末期のころに供されるようになった、
ということが、文献上でも明らかなのである。
(民族学者・神崎宣武)

この記事を読んで知った事が沢山ありました。

女の子だけのものではなかったのですね。
ならば、五月はやはり、男の子だけのものではないのでしょうか、、?

白酒。 病を除き、顔色をうるおす、、

行事が遊戯化をするとき、、、
確かに、神事、祓いとしてするなら、
家族、集落皆がやるものですよね。

私は産経をとっているのですが、また面白い記事があれば
ご紹介したいと思っています。

7 thoughts on “雛祭りのお話

  1. 一年間でこの時期、つまり五月頃より暑くなるので、元来、悪疫が流行り死人・病人が多かったため、お祓いをしたようです。 菖蒲(しょうぶ)などの薬草を「薬玉(くすだま)」にして肘にかける風習があったようです。 鎌倉期以降、武家政治の時代となり「菖蒲」を「尚武(しょうぶ)」にかけ、この節句を尊んだようです。以後、次第に男子のお祝いに変わっていったようですね。

  2. 伝来は奈良時代ではなかろうかということですが・・・中国から日本への伝来当初より、「端午の節句」も祓いの意味がありました。 老若男女、もともとは皆お祓いの被対象者となったようです。 皇族・貴族に流行った行事で、あまり民間化していなかった可能性があるようです。

  3. こうした行事について、物語などの古典文献に散見できます。しかし、何処から何処までが真で嘘なのか、わからないことが多いのです。上のコメントをみると「~ようです」の繰り返し。ちょっと可笑しくて、笑ってしまいました (^^;

  4. ほうほう、やはり元々は老若男女のものであったのですね。歴史も歴史上の人物も、時代によって、また、文献の読み方によって随分と違って居たりしますものね。お勉強になるコメントありがとうございます!!

  5. おお。一度体験してみたい、、。綺麗でしょうね。 今我が家には、幼馴染のおばあちゃまが作ってくださった折り紙のお雛様が登場しています。そぼくで可愛いんです。

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